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倭(ヤマト)しうるはし

~わが国が「倭」と呼ばれていた上古の面影を今につたえる風景や風物など・・・いにしえのヤマトをしみじみと~

山辺の道

邪馬台国と初期ヤマト王権

邪馬台国と初期ヤマト王権
(画面 / NHKオンラインより引用)



2011年1月23日の日曜日,NHKスペシャルで「“邪馬台国”を掘る」が放映されていました。山辺の道の南,三輪山のふもとにある纏向遺跡の発掘成果にスポットを当てたものでした。
 まずは50分ほどの番組内容のポイントを箇条書きにまとめると以下の通りです。

①纏向遺跡は弥生末期~古墳時代初期の大規模集落遺跡(確認される最大級の集落都市遺構)であり,東海から北九州まで広範囲の土器が出土している。

②さらに,2009年11月には3世紀の地層から大規模な宮殿施設の遺構(南北約19メートル,東西約6メートル)と思しき土坑が発見され,邪馬台国の有力候補地として一層重みを増している。

③宮殿跡と同じ年代の地層から銅鐸の破片が見つかったが,銅鐸の破壊実験結果から,この破片は意図的に破壊された可能性が高い。

④宮殿跡付近における2010年7月からの発掘により,約2000粒もの桃の種とザルが出土した。

⑤桃は祭祀に供されたものと考えられ,中国の三国志に「鬼道」と記された道教祭祀でも桃を供える。

⑥しかし,纏向遺跡は3世紀当時最大規模の都市遺跡であるにもかかわらず,鉄器の出土例が皆無に等しく,金属は青銅器が主流である。

⑦その一方,吉野ヶ里遺跡をはじめ北九州では,纏向遺跡と同時期の遺構から大量に鉄器が出土している。


邪馬台国かどうかはさておき,初期ヤマト王権(三輪王朝)の王都だったことは確実視される纏向遺跡。JR万葉まほろば線「巻向駅」あたりを中心に3000平方メートルに及び,その規模は後世の藤原京に匹敵するとのことです。上記①で書いたとおり,列島各地の土器が出土するなど,2世紀末から4世紀はじめにかけて,ここ纏向が西日本一帯にわたるネットワークの中心地であったことが強く示唆されています。
 記紀によれば,崇神天皇(ミマキイリヒコ王)の磯城瑞籬宮,垂仁天皇(イクメイリヒコ王)の纏向珠城宮,そして景行天皇(オシロワケ王)の纏向日代宮がこの地に存在したと伝えられています。

邪馬台国と初期ヤマト王権←クリックで大きな画像が見れます
●纏向遺跡の想像復元図 ~ただし,宮殿跡等発掘以前に描かれた絵図のため現在の考古学知見と異なる部分あり

近年の考古学成果によって纏向が西日本のセンターとして最も機能していたとされる3世紀半ば,中国の文献「魏志倭人伝」には邪馬台国が30カ国の盟主であり,その女王卑弥呼は内外から「倭王」として認定されていたと記載されているため,纏向遺跡と邪馬台国と初期ヤマト王権の関連性がとりわけ注目されているという形になっているのでしょうね。

邪馬台国問題を考える上で,必ず触れなければならないのは邪馬台国の女王「卑弥呼」。そして,日本書紀で“昼は人作り,夜は神作る”と書かれた「箸墓」です。
 箸墓のことはNHKスペシャルでの内容から少しそれるところもありますが,次は,卑弥呼と箸墓の被葬者とされる倭迹迹日百襲媛命について触れましょう。

【卑弥呼と倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)】

邪馬台国と初期ヤマト王権

其の墓をなづけて箸墓(はしのはか)といふ

是の墓は日(ひる)は人作り,夜は神作る


(日本書紀 / 崇神天皇十年)



今のところ,最古の巨大前方後円墳とされる箸墓の日の出です。薄暗い中,朝焼けとともに巨大な墳丘が浮かび上がってきました。
 日本書紀の伝えるところでは,この箸墓は倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)の陵墓。伝説上の第7代孝霊天皇の王女で,神意を伺う巫女として崇神天皇(ミマキイリヒコ王)の治世を大いにサポートしていました。日本書紀によれば,前記事「磯堅城の神籬」でも述べた王権の危機に際して,神浅茅原の地(今の字茅原?)で神意を問うミマキイリヒコ王に対して,大物主神の神託を伝えて王に正しい対応策を示したり,武埴安彦の反乱を予見するなど,ミマキイリヒコの王権維持には欠かせない存在であったようです。

邪馬台国と初期ヤマト王権

鬼道を事とし 能く衆を惑わす

                     男弟有り 佐けて国を治む


魏書東夷伝は倭人条,いわゆる「魏志倭人伝」において,邪馬台国の女王,卑弥呼のことを述べた一節。鬼道によって,男弟の政務(実務)を導いているとも解釈できるその様子は,神意を伺い立ててミマキイリヒコ王をバックアップするヤマトトトビモモソヒメの姿と一致することから,邪馬台国大和説の中には,ヤマトトトビモモソヒメが魏志倭人伝に云う卑弥呼ではないかと考える説もあります。
 一昔前までは,箸墓の築造は3世紀末か4世紀初頭あたりだろうとされてきたのが,近年の測定技術の発展などで再検討された結果,箸墓は卑弥呼が死んだとされる3世紀半ばに築造されていた可能性が濃厚になっています。
 考古学的知見に加えて,崇神紀と魏志の類似点など背景に,「ヤマトトトビモモソヒメ=卑弥呼,ミマキイリヒコ王(崇神天皇)=男弟」とする仮説もなされているわけですが,王の政をその姉妹等が巫女として加護する体制は特別なものではなく,弥生・古墳時代の「倭」ではごく一般的な支配体制であったという知見もあり,現在の八幡信仰の主神,八幡大神(応神天皇)には比売大神という女神が必ずセットで祭られていることや,沖縄に残るヲナリ神の概念(女性はその男兄弟を常に霊力で守り続けているという考え)はその名残であるともいわれています。それ故,巫女と男王が共同で国を治めているからといって,卑弥呼&男弟コンビをモモソヒメ&崇神であると特定するのは難しいだろうという反論もあります。

ここで,話を再びNHKスペシャルの内容に戻します。
 番組では,上記④の大量に出土した桃の種から,“鬼道を事とし”と魏志に書かれた卑弥呼の人物像に新たな一面を見出していました。それは,卑弥呼は道教に基づいた祭祀を行って,人心を引き付けていたのではないかということ。そして,桃はその祭祀での供え物として使われていたのではないかと。桃は⑤に書いたように,三国時代に「鬼道」とも呼ばれていた道教の祭祀には欠かせないものだとのことです。中国古来の神仙思想では,桃は邪気を払う力を持ち,不老長寿をもたらす果実として珍重されていました。
 すなわち,卑弥呼は,大陸由来の巫術・祭祀の技能(ある意味,先進的な祭祀)も習得していた特殊な巫女だったのかもしれません。
そして,③の破壊された銅鐸の破片は,倭国大乱以前から続いた古来の祭祀を放棄し,外来の要素も取り入れた新たな祭祀を第一とすることで,乱れきった日本列島を統合しようとした証拠ではないかと番組では考察していました。
 ちなみに,卑弥呼より前の時代には「桃への神聖視」が当時,倭と呼ばれた日本列島に全く存在しなかったのかというとそうとは限らないと自分は思います。記紀神話でもイザナギが桃の実を投げて黄泉の追手を撃退するくだりがあったり,縄文・弥生の遺跡からの桃の種の出土例自体(中には祭祀に使ったらしい事例も)はあったりするので,中国黄河流域を原産地とする桃ですが,非常に早い時代から,魔除け・不老長寿の概念とともに中国から日本列島にもたらされていた可能性はあるでしょうね。
 
邪馬台国と初期ヤマト王権

卑弥呼以って死す 大いに冢を作ること径百余歩

(魏書東夷伝 / 倭人条正始八年)



ある晩秋の昼下がり,山辺の道。箸中の斜面あたりから箸墓古墳が浮かぶ巻向一帯を見渡しました。

魏志にいう卑弥呼の墓塚がこの箸墓であるかどうかはわかりませんが,先述の日本書紀における箸墓築造のところと併せ読んで感じたことは,どちらも未だかつてないほど大きな墳墓を築いたことを伝えているのではないかなということ。そして,今ひとつ双方からいえることは,これまでとは比較にならないほど大きな王権が誕生したことを表しているのではないかということ。
 NHKスペシャルでも,吉野ヶ里遺跡の発掘成果なども紹介し,冒頭⑥⑦のように,纏向遺跡が邪馬台国であると言うには,強力な支配権には重要な鉄器が殆ど見つかっていないという問題点もあることを指摘していました。纏向遺跡と同時期の北九州の遺跡で大量に出土する鉄器が意味するものは何なのかということと邪馬台国の場所をはっきりと特定できるような決定的な発見は未だないということです。

今年にも,纏向遺跡において昨年の発掘場所の北隣のエリアを発掘調査する予定なのだそうです。邪馬台国のもうひとつの有力候補地である北九州でも発掘は続いているとのことです。
 
邪馬台国と初期ヤマト王権(三輪王権)がどのように結びつくのか,邪馬台国の位置特定への決定打はやはり無いものの,もはや一昔前にいわれたような「永遠の謎」ではないと思います。 今なお,王権発祥当時の香りが色濃く漂うこの地域から,この問題の可否を明らかにし得る新たな発見が蓄積され,少しずつだけど確実に不明のスキマが埋められていき,江戸時代から謎とされてきた邪馬台国問題が完全に明らかになる日は必ず訪れるのではないでしょうか。




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