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倭(ヤマト)しうるはし

~わが国が「倭」と呼ばれていた上古の面影を今につたえる風景や風物など・・・いにしえのヤマトをしみじみと~

大宮八幡宮 ~古の海人族の記憶を留める社~

大宮八幡宮 ~古の海人族の記憶を留める社~

●上古からの聖域だった大宮八幡宮。境内の社叢が古の祭祀場の雰囲気を今に伝えているようです


吾家(わぎへ)は帷帳(とばり)も垂れたるを 

大君来ませ聟にせむ

御肴に何よけむ 鮑(あわび),栄螺(さざえ)か

石陰子(かせ)よけむ

(催馬楽 / 海部の歌)



和田大宮に鎮座する大宮八幡宮(東京都杉並区)。八幡宮としての創建は西暦1063年ですが,それをさかのぼることはるか弥生・古墳の昔,すでに神社の前身としての祭祀空間がありました。
 それを裏付けるのは,境内地から発掘された方形周溝墓。3世紀後半の王墓からは,壷型土器・高杯や勾玉類が出土しました。3基並んだ墳墓の周溝から見つかった12個の土器はいずれも弥生時代末期の祭祀用のものであったわけです。

大宮八幡宮 ~古の海人族の記憶を留める社~
●大宮八幡宮の境内から発掘された方形周溝墓(大宮遺跡)

善福寺川の脇に位置する高台にあたる大宮八幡宮ないし大宮遺跡(方形周溝墓群)。発掘調査が行われたのは1969年夏のこと。調査を終えた今はもう埋め戻され,神社と高千穂大学を結ぶ,木立の通り道になっています。すぐそばを河川が潤す丘陵ないし山という地形は上古,祭祀空間として好まれた立地条件。今も当時の地形を留めているだろう神社本拝殿の周囲から墳墓のあるあたりまで迫る社叢の木立。武蔵野の面影を留める木々に鬱蒼と覆われた空間は,いつ訪れても清浄な空気感が漂っていて,上古の祭祀場の雰囲気を今に伝えているかのように思えます。

大宮八幡宮 ~古の海人族の記憶を留める社~
古墳時代の祭祀想像図。水(清流)が近くを流れること,丘陵地など高台などは,祭祀空間としての重要な条件だった。絵図は墳墓前ではなく磐座前での祭祀の想像図



ところで,神社に伝わる創建の縁起を紹介すると,以下のとおりです。

"康平6年(1063年),奥州遠征に向かう源頼義・義家の父子とその軍勢が,このあたりを通りがかった時,上空に白旗のような瑞雲がたなびくのを見て,神威を感じ,八幡大神をこの地に奉祭した"

簡単に言えば以上のような経緯で大宮八幡宮が発足したわけです。はっきりとそうだとは述べられていないものの,「白雲がたなびいた」とか,「源頼義が神威を覚えた」というエピソードは,11世紀に源氏の奥州遠征軍がここに来る以前から,何らかの重要な聖域(祭祀の場)として,ここ大宮の地が神聖視されていたことを暗にほのめかしているのではないでしょうか。

さて,話を上古のころに戻すと,現大宮八幡宮の周囲に広がる,和田大宮(和田堀公園)一帯には,3~6世紀にかけての集落が広がっていたことが考古学調査で確認されていますし,3基の方形周溝墓の他にも,先述の高千穂大学構内への道なりに20基ほども円墳が密集していて,ちょっとした古墳群を形成していたとも聞きます。
 そして,その古墳や集落は3世紀ごろにこの地に住み着いた「海人族」のものだとされています。元をただせば北九州の志賀島あたりに起原するという海人族(安曇族)。古地名の考証や考古学的な証拠などから,2世紀ごろに渥美半島あたりに進出した彼ら海人の一派が,房総経由で,武蔵へと,和田大宮の地へと至ったのだといいます。今の地図にも残る和田大宮の「和田」というのも,「ワダツミ」ないし「アマダ(海田)」という海人系の地名などに由来するものだろうと解釈されています。

大宮八幡宮の前身ともいうべき古墳群は海人族の王家の谷

軍事貴族,源氏の手によって,八幡神が祭られるはるか以前,「倭」の時代の大宮は海人族の神と首長の祖霊を奉祭する古代斎場であったというわけです。

大宮八幡宮 ~古の海人族の記憶を留める社~
●この2013年,八幡鎮座950年を迎えた大宮八幡宮にて祭典の行列

八幡宮としての発足から今年で950年の節目,そして,それ以前の古代海人族ゆかりの祭祀場としての歴史も計算に入れれば約1800年に及ぶ和田大宮の鎮守。
 そんな大宮八幡宮では,ここならではの古式の祭儀や独特の祭典などが行われています。
 例えば,七夕のころ,そのルーツにあたる「乞巧奠(きっこうでん)」を千年前以前さながらに再現し,神社の行事として継承し続けているのは,関東ではここ大宮八幡宮のみ。日本全国でも,現在,乞巧奠遊びを再現しているのは藤原摂関家の伝統を継ぐ京都の冷泉家と大宮八幡宮の2箇所だけであるといいます(乞巧奠遊びでの大宮八幡宮宮司の講話より)。
 古い歴史を背負う大宮八幡宮では,宮司以下,神職巫女がこぞって王朝時代以前の古い有職故実を,熱心に学習・研究し,七夕の乞巧奠以外にも,様々な古い行事を復活再現させ,年間を通じての祭典・行事に取り入れています。さすがに,文献資料がほとんどない古墳時代以前の祭儀というわけにはいかないようですが・・・


大宮八幡宮 ~古の海人族の記憶を留める社~
●律令期の七夕である「乞巧奠(きっこうでん)」を再現した祭典(2013年7月7日撮影)


おそらく,我が国が「倭」と称していたころには,和田大宮のお社では,安曇族なども奉っていた海の女神,玉依姫を主祭神として祀っていたと考えられています。やがて古代から中世になると,主祭神の座は新参の軍神,八幡大神(応神天皇)に取って代わり,八幡宮としてリニューアル・再出発した大宮八幡宮は,中世武家政権のころを通じて,武蔵国における鎌倉街道中道の要衝として機能していくことになるわけです。
 なお,中世以降の大宮八幡宮については,姉妹ブログ「いざ,鎌倉みち紀行」において多々取り扱っています。

(参考文献)
・荻原弘道著 東京・和田大宮の研究 (平成17年8月1日 第1版発行) 大宮八幡宮編


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まほろば旅日記編集部 倭しうるはし担当