錦秋の新嘗祭,石上神宮

まほろば旅日記編集部 倭しうるはし担当

2012年12月01日 03:00



●石段上にある拝殿へと向かう神職(2012年11月23日 午前11時)

十種の瑞寶を饒速日命に授け給ひ 饒速日命は天磐船に乗りて 

河内の哮峯に天降坐給ひしを爾後 布留の高庭なる石上神宮に遷し鎮め斎き奉れり


(参照先/十種祓詞)


去る11月23日,新嘗祭が行われる日。石上神宮にて。この日は,曇ったり小雨がパラついたり,気温も低い朝だったにもかかわらず,境内は祭に参列する人などで大変にぎわっていました。
 祭典が始まるまで木々が秋色に染まった境内をゆったり散策する参拝者の中,時折,神職や巫女が神具などを手に駆け抜けていきます。
 ここ石上神宮は,前記事「布都の御魂坐す,石上神宮」で紹介した神剣“布都御魂大神”にあわせて,物部氏の祖神ニギハヤヒが天界から持って降りたとされる十種神宝(とくさのかむたから)の神霊も祭神として,“布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)”という名で神社本殿に祭られています。前夜にこの十種神宝を用いた招魂の秘祭が執り行われたのですが,石上神宮ではその翌日に本年の新穀を祝う新嘗が行われるというわけです。

午前11時,新嘗祭の開始。神職の行列が祓所,さらに拝殿へと参進しました。



●新嘗祭の日,石上神宮の様子

イチョウの神木はこのときが黄葉のピーク。また境内のカエデも競うように紅葉していました。拝殿で厳かに執り行われる神事に,境内の錦秋が華を添えます。
 
石上神宮は,上古にはヤマト王権の武器庫でもあったともいわれ,王権の有力豪族,物部氏が管理・祭祀してきたという古社。そのためなのか,人格神の代わりに剣や宝物に宿る御霊が主だった祭神となっています。そして,高天原から地上に十種神宝をもたらしたニギハヤヒは意外にも祭神にはなっていません。ニギハヤヒ自身は河内の地に祭られているのです。
 



●ニギハヤヒを主祭神とする磐船神社(交野市)の御神体,舟形巨石(天の磐船) ~2012年5月撮影~

高千穂に降臨した天孫ニニギノミコトとは別に,高天原からヤマトの地に降臨したといわれるニギハヤヒノミコト。冒頭のように,天照大神から十種神宝を授かり,天磐船(あめのいわふね)に乗って地上に降り立ったとされています。
 降臨後はヤマトの豪族ナガスネヒコに奉じられてこの地に君臨していたらしいこと,そして,イワレヒコがヤマトに来ると,その傘下に下り,その子孫は物部氏など後にヤマト王権を支えていく有力氏族となったことが記紀に伝えられています。
 
わが国初の禅譲劇ともいうべき,その興味深い経緯に,ヤマト王権より以前に別の王権が今の奈良盆地あたりに存在しており物部氏の祖先がその王だっただとか,弥生時代あたりはもともと物部氏がヤマトの王であったが,3世紀ごろに西から来た天孫族に王位を譲って自らはその重臣になったなど,ニギハヤヒの神話については,さまざまな説や考察があるようです。



●祭儀が終わり石段を降りる神職(2012年11月23日 午前12時ごろ)

日が高くなる正午ちかく,小一時間の新嘗祭が終わりました。

石上神宮の由来とも深い関わりがある,高千穂とは異なるもうひとつの天孫降臨神話。持ってきた宝はヤマト王権(三輪王権)のお膝元に,そして宝を持って降臨した天神自身は河内の地に,それぞれ分かれて奉祭されている,ある意味ユニークともいえる事象。ニギハヤヒひいてはその一族子孫がたどった歴史,ヤマト王権成立についての“隠れた真実”がそこに刻まれているのかもしれませんね。


錦秋の中,倭国草創へと想いを馳せた石上神宮でのひとときでした。




【石上神宮の由緒】
●主祭三神
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ),布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ),布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)

●配祀神
宇摩志麻治命(うましまじのみこと),五十瓊敷命 (いにしきのみこと),白川天皇 (しらかわてんのう),市川臣命(いちかわおみのみこと)

●歴史●
石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
 
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
 
中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。
 
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
 
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。


(以上,石上神宮配布の由来パンフレットより引用)


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