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倭(ヤマト)しうるはし

~わが国が「倭」と呼ばれていた上古の面影を今につたえる風景や風物など・・・いにしえのヤマトをしみじみと~

古墳をたずねて

続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え

続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●ビジネスカバンを片手にひとり古墳群へと舞い戻った自分


前記事「かぎろひ燃ゆる,さきたま古墳群」の続き。朝から昼過ぎにかけての所用が滞りなく,首尾幸いに終わって,訪問先の事業所を後にしました。伊香保で骨休めをするという上司とも熊谷の駅で別れた自分,午後3時をまわる時刻に再びさきたま古墳群へともどって参りました。

夕暮れにかけて,王家の谷に滞在。自由な時を費やした次第。

全長数十~百メートル超の前方後円墳や日本最大の円墳が9基もひしめき合う古墳群だということは前記事でも書いたとおりです。そのため,ゆったり気ままに散策などしていれば,1時間くらいはゆうに費やしてしまいそうです。



続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●埴輪の破片(赤の囲い部分)。古墳の表面などよくよく観察していると,ちらほらと見当たります

古墳の表面に転がっていた5センチほどの焼き物破片。

ケータイで撮影し(上写真),古墳公園にある資料館で見せたところ,

これは埴輪ですね

とのこと。

1500年前の人の手で作られたもの。

当然といえば当然かもしれないけれど,あるものなんですね。



続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●奥の山古墳に写し絵のようにへばりつく木々の影

さきたま古墳公園で確認されている大型古墳を,古い順に並べると以下のとおり。

稲荷山古墳 - 5世紀後半築造
丸墓山古墳 - 6世紀前半築造
二子山古墳 - 6世紀前半築造
瓦塚古墳 - 6世紀前半築造
愛宕山古墳- 6世紀中頃築造
奥の山古墳- 6世紀中頃築造
鉄砲山古墳- 6世紀後半築造
将軍山古墳 - 6世紀末築造
中の山古墳- 7世紀初築造


ヲワケ臣とその子孫が代々,約150年間にわたって,造営してきたものでしょう。



続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●円墳の頂上に本殿が鎮座する前玉神社(さきたまじんじゃ)

円墳(浅間塚)に鎮座する前玉神社。延喜式内社で,さきたま古墳群の造営が始まった頃に創建された神社ではないかと考えられています。

神社の名でもあり,「埼玉」の県名の元にもなった「前玉(さきたま)」とは,今の神道でいう幸魂(さきたま)のことだろうとも考えられています。



【さきたま古墳群,暮色】
やがて,夕暮れ時を迎えました。

朝とはちょうど反対の方角に,日が次第に赤みを帯びて沈んでいき,夕焼けが巨大な墳丘をシルエットに再び染め上げました。


続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●二子山古墳の前方部と後円部のくびれに,日が沈んでいきます (4:45PM)


幸魂(さきみたま) 奇魂(くしみたま)

守りたまえ 幸(さき)はえたまえ


(出雲神語)



続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●あたりを朱に染め上げながら,丸墓山古墳の脇を沈んでゆく日の玉(4:55PM)


この地の産土神にして,出雲系の神ともいわれる,前玉比古命(さきたまひこのみこと)と前玉比売命(さきたまひめのみこと)。文字通り,朝,朱色の日の玉が幸(さき)わい昇り,天空から上古の王たちが眠る地を守るように照らし続けた後,また,夕に幸(さき)わい沈んでいくのでした。


続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●将軍山古墳の暮色(5:15PM)


幸(さき)運ぶ白鷺(しらさぎ)が,陵墓(みささぎ)の上をよきるのをしかと見届け,


続 さきたま古墳群紀行 ~守り給え幸はえ給え
●日が沈みきった残照の丸墓山古墳(5:30PM)


公私ともに,この日ばかりは奇しくも思い残すこともなく,さきたま王家の谷に隣接する天然温泉のお宿で週末の夜を明かした次第です。


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