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倭(ヤマト)しうるはし

~わが国が「倭」と呼ばれていた上古の面影を今につたえる風景や風物など・・・いにしえのヤマトをしみじみと~

山辺の道

磯堅城の神籬(ひもろぎ)

磯堅城の神籬(ひもろぎ)


天照大神を以ては、豊鋤入姫命に託けまつりて、


倭(やまと)の笠縫邑(かさぬひのむら)に祭る。


よりて磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立つ。


(写真 / 檜原神社)


檜原神社の境内から眺める夕日。二上山へと沈んでいく太陽は幻想的です。
 
ここは元伊勢。奇しくも,太陽神アマテラスを最初に祭った「倭笠縫邑」に比定されている地です。

初期ヤマト王権の創始者ではないかともいわれる崇神天皇こと御間城入彦命(ミマキイリヒコノミコト)。この王(きみ)は三輪山麓の磯城(瑞垣宮)に宮を定めて国造りに勤しみますが,まもなく深刻な危機に見舞われました。即位5年目,疫病により人民の半数以上が亡くなる大惨事が発生。そして,翌年には,農地を棄てて流浪する人民が激増し,各地で反乱も頻発。挙句の果てには,宮中で並び祭っていた天照大神と倭大国魂神までが相争う始末。ミマキイリヒコ王による治世は一時,完全に麻痺しました。

度重なる災いは二神の争いが原因では,と考えたのでしょうか。王は天照大神と倭大国魂神を宮外に出して別々の場所へ遷し,自分の二人の娘にそれぞれの神を祭らせました。

そして,王女,豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託された天照大神の神霊(みたま)をお迎えする依り代,すなわち「神籬(ひもろぎ)」が立てられたと日本書紀(崇神紀)に記されている聖地「倭笠縫邑」が,この檜原神社あたりだと。

三輪山の北西山麓に位置し,二上山に沈む太陽を遥拝できる檜原神社の境内は,太陽神が光臨する聖地に相応しい場所かもしれませんね。

さて,まつりごとに挫折していたヤマトの王ミマキイリヒコですが,古より三輪山に鎮座する大物主神(オホモノヌシノカミ)の神託に従ったおかげでヤマトの国を安定させることができ,またヤマト以外の遠隔地にも部将を派遣するなど,初期ヤマト王権(三輪王権)の確立・進展を成し遂げて,「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と奈良時代の日本書記にて記載・称賛された次第です。
 そして,倭笠縫邑で祭られた天照大神は,その後,トヨスキイリヒメから倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に祭祀を引き継がれました。天照大神はより良い場所を求めて,巫女のヤマトヒメとともに各地を転々とし,最終的には五十鈴川のほとりにご鎮座なされました。これが,伊勢神宮の内宮(皇大神宮)の始まりであるといわれます。

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