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倭(ヤマト)しうるはし

~わが国が「倭」と呼ばれていた上古の面影を今につたえる風景や風物など・・・いにしえのヤマトをしみじみと~

古代祭祀の面影


●太古の祭祀遺跡が散在する安心院(あじむ)の神奈備,米神山をバックにして


吾(あれ),千柱(ちばしら)の石柱を降らしめて 此処に都城(みやこ)を成さむ 


豊国(とよのくに)の大神社(おおかみやしろ),宇佐神宮から川上の方向へ南へ向かうこと約10キロ強。宇佐市の内陸,安心院(あじむ)には,太古祭祀の面影を伝える巨石群があまたあります。中でも,有名なのが佐田地区の列石群。均整の取れた円錐型の米神山の山麓から頂上にまで,数々の人工の巨石遺構が意味ありげに点在しています。



●米神山のふもとの列石,佐田京石



●米神山の頂上を指すように建てられたコシキ石(赤枠内)とその拡大写真。コシキ石が指す山頂部分にはストーンサークルがあります。


古代の祭祀場,鳥居の原型,古墳・・・

諸説あるものの,いつの時代に何のためにつくられたのかははっきりとわかっていません。確かなのは,自然の造形ではなく,明らかに人の手で造られたものであること,そして一部はかなり後世に経塚として再利用されていたこと。
 ただ,巨石の中には支石墓と考えられるものもあったりして,おそらく弥生時代に建造されたものだと推測はされています。そして,これら巨石建造物は米神山に配置されており,大和の三輪山などに見られる磐座(祭祀遺跡)と考えても差し支えはないだろうとも。

●佐田京石のそばにある,支石墓と考えられる石組み遺構


宇佐神宮が今の地に創建される以前の上古のころの祭祀遺跡と考えられる巨石遺構は米神山周辺だけではなく,安心院近隣の各地にあります。

三女神社の本来の御神体だとされる三本の石柱,白山神社の磐座,そして御許山(宇佐神宮奥宮)の磐座 etc

いつのころからか安心院に伝わる,これら巨石群にまつわる伝説を表したのが冒頭の一節。その昔(神武天皇ことイワレヒコがここに立ち寄った時だともいう),米神山の女神がこの地を倭国の都にしたいと願い,一夜のうちに千本の岩を天から降らせていたが,999本目の岩を降らせた終えたときに,岩を降らせているところを他人(穢れた女性とも)に見られてしまい,ついに千本の岩を地上に降らせ終えられず,都をつくることもできなかったというもの。


●最後の千本目を天降らせること叶わなかった女神様の心中はどのようなものだったか・・・。


宇佐神宮が鎮座する東表国(トヨビノクニ),八幡信仰発祥の地というだけではなく,ここには上古への思いをかきたてるものがいろいろと残されています。

古代祭祀の面影


●ヒミコ(日巫女?)による神火の点灯(2012年10月27日)


すなはち火産霊神(ほむすびのかみ) 埴山姫(はにやまひめ)を娶りて 稚産靈神(わくむすひのかみ)を生む
(日本書紀より)



昨年に続き,訪れた吉野ヶ里遺跡。年に一度の炎の祭典「ふるさと炎まつり」のクライマックスでは,ヒミコが,まつりのメイン会場に炎を灯します。昨年,あいにく見逃した,この採火式と採火行列(たいまつ行列)を目にしました。
 実は,この炎は,吉野ヶ里遺跡の北隅に鎮座する日吉(ひえ)神社で起こされた神火。火産霊神(ほむすびのかみ)の子とされる稚産靈神(わくむすひのかみ)は五穀豊穣の神。日吉神社の祭神は冒頭の火産霊神ではないけれど,冒頭の日本書紀の一節のように,古来,火は万物の創生に関わる重要なレパートリーだと信仰されてきたのでしょう。

炎まつり1日目,弥生遺跡の脇に鎮座する古社で産(む)された神火が,古代人に扮した行列の手によって吉野ヶ里遺跡の随所へと運ばれていきます。


実は,当日は小雨模様。昨年も雨天,聞くところではその前の年も炎まつりの日はかなりの雨だったそうで,火の祭典なのに,なぜか不思議と雨天に見舞われることが多い「吉野ヶ里ふるさと炎まつり」です。

みづはのめのかみ

記紀に記された水の女神で,古事記では弥都波能売神,日本書紀では罔象女神と表記され,神道の世界では水波能売命(みずはのめのみこと)と書かれることが多いとのことです。
 この水神は,火産霊神や埴山姫神と相前後して,イザナミ女神から産まれた子神。神話上,火と土の二神とは非常に近しい存在に位置づけられています。そして,やはり火や土とともに豊穣には欠かせない存在。



●小雨ぱらつく中,炎は遺跡構内を練りめぐります(2012年10月27日)


毎年10月下旬の雨模様が多い炎まつり。

この日はもしかすると,吉野ヶ里の地に今も宿る国津神が年に一度,水と火によって賦活再生するための日なのかもしれないですね。

古代祭祀の面影





“高天の原に坐します大神を 我 吉処(よきところ)に奉らむ”






“天の磐座(いはくら)放ち給ひ 天の八重雲を伊頭の千別きに千別き給ひて・・・”






“是の磐座に 天降し依さし給へ”






“我が心ざして往く処 吉きこと有らば・・・”







“南の鳴磐は未だ見ざれど 吉処の有るべく見ゆ”







“是の和(にご)き水音の鳴磐は甘き水の清(さや)けき水のさわなる吉処なり”







“是の草の木を神籬(ひもろぎ)となして 大神を鎮め坐して斎き奉らむ”






(文 / 倭姫命世紀および大祓詞を参照)

(モデル / 倭姫命人形[伊勢参宮記念品])

古代祭祀の面影

天白磐座祭祀遺跡


●天白磐座遺跡。山頂部の巨岩群全景

伊勢参りからの帰途,浜松にある磐座祭祀遺跡へと足を伸ばしました。

天白磐座遺跡

渭伊神社(浜松市引佐町)境内の裏山にある大規模な巨岩群です。古墳時代から中世にわたる複合遺跡(※1)で,4世紀のものとされる勾玉類や祭祀土器が出土していることから,上古のころには神を斎き祀る磐座として祭祀が行われていたと考えられています。




古墳時代当時には森林に覆われていたのかどうかわかりませんが,鬱蒼とした木々と巨岩がコラボして神仙な雰囲気を醸し出していました。



●天に向かって聳える大木と巨岩


話によれば,この磐座祭祀遺跡の周辺地域には古墳も点在しており,遺跡から下った平野部には大規模な集落跡も発見されているそうです。



●数ある巨岩の中で,神が天から降臨する磐座と考えられているのがこの巨岩


井の国


磐座祭祀が行われていた頃,このあたり一帯は「井の国」と呼ばれ,中世以降に武家として活躍した井伊氏の祖先だともいわれる「井の王(きみ)」によって支配されていました。


“井”が示すように,渭伊神社(※2)のある聖域は元々,水神を祭っていたのだそうです。

確かに,天白磐座遺跡のある小山を囲むように神宮寺川の清流が流れています。






井の王(きみ)は,この地で水にまつわる祭祀を執り行わせていたのでしょうか。



(註)
※1 中世(平安後期)には巨岩群の中に経塚が営まれていたらしく,当時の経筒が出土しています。
※2 現在の祭神はホムタワケノミコトすなわち八幡大神。

古代祭祀の面影


●熱田神宮例祭にて。古式に則る神事は厳粛そのもの(2011年6月5日)


その御刀(みはかし)の 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を

その美夜受比売の許に置きて 伊吹の山の神を取りにいでましき


(古事記 / 中つ巻より)


去る6月5日,熱田神宮の例祭,いわゆる“熱田まつり”に詣でました。冒頭写真は午前10時,神明造の御本殿前にて行われた例祭の様子。色とりどりの装束に身を固め,神殿前の斎庭に並び座した大勢の神職,そして粛々と神事を陪観していると,広大な神社の森もあいまって,名古屋の都心に居ることなど忘れてしまいます。
 伊勢神宮や宇佐神宮とともに,その名を全国的に知られた熱田神宮は,尾張の由緒ある古社。記紀の伝えるところでは,尾張国造オトヨノミコト(乎止与命)の娘で,ヤマトタケルの妃になったミヤズヒメ(宮簀媛,または美夜受比売)が,ヤマトタケルから預かった草薙剣(くさなぎのつるぎ)を御神体として創建したとされます。


●熱田の斎庭に座す勅使(2011年6月5日)

この“熱田まつり”は,皇室から御幣物を賜る、勅祭です。絹布五色が入った櫃や祭文を携えて下向してきた勅使もまた,玉石敷き詰められた斎庭に座して祭事を見守ります。

“庭上座礼”

写真のように庭に座して祭事(神事)を執り行う作法のことを,神道の用語では「庭上座礼」と呼ぶのだそうです。それに対して,起立した状態で神事を執り行う作法は「立礼」だそうです。現在,最もよく目にする,社殿の中で椅子を用いているのもどちらかといえば立礼に含まれるのだそうです。


●こちらの神事は「立礼」

伊勢神宮の神職さんに聞いたところ,立礼か座礼,どちらの作法を採るかは各神社の社殿構造や環境によるとのことでしたが,「庭上座礼」は現在ではなかなかお目にかかれないものでもあるようです。
 「庭上座礼」で神事を執り行っているのを一般の参拝者が見ることができるのは,ここ熱田神宮と伊勢神宮だけではないかとのこと。

「どちらかといえば庭上座礼は古くからの祭祀作法を色濃く反映した作法と言えましょう」

現在,伊勢や熱田で見られる庭上座礼の式次第は明治のころに規定・形式化されたものなのだそうですが,はるか律令の昔あるいはそれ以前から連綿と伝えられてきた有職や古い作法をバックボーンにしているのは間違いないのだとか。


●伊勢内宮(皇大神宮)の正宮における庭上座礼の神事を描いたもの

神の依り代がある場所が座って拝めないようなデコボコの岩場だったりだとか環境的な要因もあるので一概には括れないとしながらも,伊勢の神職さんが言うには,かつて社殿を設けず,磐座などを前に祭祀していた時代は,人々は座して,神々に祈りを捧げていたと考えるのが普通だろうとのことでした。上古の人々は幸をもたらすと同時に危難を成すこともある自然神に対して,現代人が考える以上に底知れない恐れと敬いの念を抱いていたはずであり,当然ながら最高の敬意と服従を表すような体勢(いわば土下座)をとって拝んでいたはずだろうとのこと。


大人ノ敬スル所ヲ見レバ 但ダ手ヲ博(ウ) チテ 以テ跪拝ニ当ツ
(魏志倭人伝より)


 そういえば,魏志倭人伝によると,目上の人間に対しても道端でも跪いて,拍手(かしわで)打って挨拶していたという我々の祖先,倭人。そんな倭人が,神相手であればなおさら平身低頭して体全体で畏敬を表したはずだろう。特別な理由がない限り立ち姿で神を拝むことなどあり得なかったのかもしれませんね(勝手な想像ですけれど)。


●弥生時代の祭祀を考証・再現したジオラマも,庭上座礼でした(吉野ヶ里遺跡資料館にて)

日本の国が「倭」と呼ばれていた頃には,「庭上座礼」の作法が一般的な祭祀法として広く行われていたのでしょう。そして,中世の頃の神社の様子などを描いた絵画を見ていると,社殿前の地べたに正座して神事を行う神職衆がしばしば描かれていたりするので,時代が下ってもある程度行われていたのでしょう。そして,現在は有名どころでは伊勢神宮と伊勢の作法を導入した熱田神宮をはじめ,わずかに見られるのみ。
 
今では,なかなか見ることができなくなった「庭上座礼」。考えようによっては,我々の遠い祖先,倭人の信仰心(ココロ)を今に伝える無形文化財だと思うのは自分だけでしょうか。

「倭」の時代に創建されたとされる社叢で,古の祭祀の一端を垣間見たような,2011年6月5日の熱田まつりでした。


●熱田まつりの日。熱田神宮の別宮,八剣宮においても「庭上座礼」による神事が催行されました

古代祭祀の面影


●山辺の道,笹に短冊が翻る大神神社の七夕祭りにて(2010年8月7日)

笹の葉 さらさら 軒場に揺れる・・・

 
いよいよ明日は7月7日,七夕の日。各地で,七夕飾りや笹飾りが夏の盛りを演出していると思います。この夏休みの抱負などをこれから短冊に託す人も多いのではないでしょうか。
 さて,今回の「倭しうるはし」は,古墳時代のタナバタについてです。日本がまだ「倭」と呼ばれていた上古,七夕のはるかな祖形ともいうべき,水祭祀と密接な関係にあった「タナバタ」神事が行われていました。
 現在,見られる七夕祭りは,原初の「タナバタ」に,律令の頃に唐から伝わった宮廷行事,乞巧奠(きっこうでん)や織女や牽牛の星合伝説が結びき,それがさらに江戸時代前後に“大衆化”ともいうべき大きな変遷を遂げて出来上がってきたものです。
※なお,ここでは割愛しますが,奈良平安期の七夕である「乞巧奠(きっこうでん)」については下記事にて詳しく記述しています。
 七夕の源流、乞巧奠(きっこうでん) ~武蔵大宮八幡宮より~(2011年7月1日)


【棚機津女(タナバタツメ)の来訪神祭祀】



●仮屋の中で神御衣を織るタナバタツメ(想像図)


わが国の七夕行事の原初的な姿は水神あるいは外界からの来訪神や黄泉の国からの祖先神に対する祭祀だったといわれています。当然ながら織女や牽牛などは全く関係ありません。立秋あたりの宵(のちの七日盆のこと),その神様をお迎えするのが棚機津女(タナバタツメ)という機織りをする巫女でした。タナバタツメは水辺に営まれた仮家で神様を待ちながら捧げ物の着物を織り,神様が来ると織った衣などと引き換えに集落の豊穣安寧を神様にお願いするという役割を担っていたと考えられています。
  
“水祭祀”

ここで出てくるのがまた,このキーワードです。以前こちらの記事で2度にわたって,古に存在した水の祭祀儀礼にスポットを当てました。

具体的には・・・
(1) 群馬かみつけの里,三ツ寺遺跡の水祭祀遺構から,また,王の儀式を表したと思われる埴輪から,水(聖水または神水?)を体内に取り込む飲水行為を伴った「流水の儀」の存在が推定され,当地の古墳まつりにおいて再現されています。
 古の水祭祀とは(2011年06月01日)

(2) 今ひとつ,水祭儀の重要な側面として,水で身体を洗い清める“禊(みそぎ)”があり,記紀にも頻出します。夏越の大祓など,現存する神道祭儀等にも,禊行為そのもの,あるいは禊に由来する神事が多く見出されます。
 夏越の大祓と茅の輪くぐり(2011年06月22日)


そして,今回紹介するタナバタツメの神事からは,水を媒介とした来訪神(または祖先神)への祭祀という,前出の2例とは一見違った水祭祀の形がうかがえます。
 ところで,過去記事(1)の「古の水祭祀とは」で紹介した城之越遺跡(三重県伊賀市)は,古墳時代前期~中期における,有数の水祭祀または水祭儀の遺跡です。その性状・規模から,湧水点(泉)を中心とした,複数種類の祭祀儀礼が行われていたことが示唆されますが,それら古代神事の実態はイマイチ明確ではありません。

お盆が近づく,旧暦七夕の頃,木津川へと注ぐ,ここ城之越の水辺でもタナバタ神事が行われていたとすればどのようなものだったかというspeculationから,描いてもらったのが下の絵図です。



●城之越遺跡の史料を参考に空想・描画した古墳時代における水祭祀の斎庭と神事の様子。

今でいう立秋あたりの時候,王(きみ)の臨席のもと,タナバタツメ(棚機津女)が神迎えを執り行う様子です。
(1)まず,依り代となるタナバタツメは神事を始めるにあたって,絵図の右下のように,斎庭の下流域にて,禊(みそぎ)をして身を清めます。
(2)潔斎を済ませ,神迎えできる状態になったタナバタツメは,次に,正装して仮屋に入り,絵図の竪穴住居とその内面図のように,神に奉る衣を織ります。
(3)そして,織物が出来上がると,絵図の左側にあるように,タナバタツメは湧水点にいくぶん近く設けられた磐座の前に座し,助手の巫女たちとともに.織物や食べ物を供えて,神の来臨を促し,多くの供え物(場合によっては自分自身も)と引き換えに,ムラ(またはクニ)の安寧と繁栄を祈願するという次第です。
 
・・・もっとも,絵図を含め以上の解説は,あくまで,素人である自分たちが,幾許かの史料や文献を眺めたうえで抱いた主観的な印象・イメージを絵図化したものであって,綿密な学術成果や専門的研究に基づいたものではありませんが・・・


【現代七夕における水祭祀の痕跡】
現在,「七夕」を「たなばた」と発音するのは,上述の棚機津女(タナバタツメ)の棚機(タナバタ)に由来します。仏教伝来以前に行われていただろう棚機津女の水祭祀の名残はこれだけかというとそうではありません。
 タナバタツメは水辺で機織りを行い,水神あるいは来訪神の祭祀を司る存在であったというのは上述したとおりです。来訪神というのは海あるいは川,つまり水を隔てた別世界からやってくる神様や精霊。水に関する祭祀・信仰と密接な関係にありました。
 今でも旧暦で七夕を行う地域では,禊(みそぎ)によるお清めを伴うケースが少なくありません。これらは盆行事(あるいは祖先神の来訪)を迎えるにあたってのお清めであり,水信仰と密接であったタナバタツメの名残だと考えられています。

【事例1】鶴岡八幡宮の夏越祭

●8月初旬,鶴岡八幡宮の夏越祭で行われる水辺でのお清め神事(2008年撮影)

立秋の前日,いわゆる夏越の日。鶴岡八幡宮では蓮がはびこる源平池の畔で,お清め神事が行われます。鶴岡八幡宮の七夕祭り自体は新暦の7月に済んでいるのですが,お盆前の夏越の日に古式に則って,水辺でお清めをするのは,かつて旧暦で行われていた本来の七夕に相当します。鶴岡八幡宮の神主さんに聞いたところでは,現在は特にこれが旧七夕だという名目はないとのことでしたが,水祭祀を伴った神社創建の頃から伝わる古いしきたりなのは確かだということでした。この八幡宮の夏越神事が上古のタナバタ神事にルーツがあるとは断言できませんが,お互い「旧7月の行事」,「水によるお清め」という重要な共通点が見られるあたりは興味深いところです。

【事例2】宇佐神宮の夏越祭

●宇佐神宮の夏越祭にて,川御幣を前に大祓詞を唱える(2009年7月31日)

前回もご紹介した,宇佐神宮の夏越神事。かつて川の畔で行われた神事は今は頓宮脇に設けた「川御幣」を前に行われ,水に関連した神事である名残をとどめています。こちらも鶴岡八幡宮のものと同様,祖先霊が戻ってくる盆を前にしての,水による潔斎に該当します。

【事例3】福島いわきの旧七夕


●いわき伝統の盆棚飾り(左)と藁で作った七夕馬(左)

現在,新暦の7月7日に行われることが多い七夕まつりですが,地域によっては今なお8月の頃,旧暦で七夕を行うところもあります。いわゆる「月おくれの七夕」と呼ばれる8月上旬に行う七夕祭りもみな旧暦七夕の名残です。
 今から紹介する,福島県いわき市の七夕は旧暦で行われるだけでなく,お盆と結びついた「七日盆」のしきたりがみられます。
 旧暦7月6日の夕方,藁または茄子や胡瓜でつくった馬を盆棚にそなえるところからいわきの七夕は始まります。この馬は「七夕馬」と呼ばれ,ご先祖様を迎える乗り物です。盆棚の準備と前後して行われるのが井戸掃除や墓掃除。七夕に,これらお盆の準備を整え,すっかり身辺を清めた状態で,お盆当日にご先祖様をお迎えするというわけです。この墓掃除または井戸掃除の習慣は,沖縄の旧盆前(旧暦七夕)にも見られ,いずれも神霊をお迎えするにあたっての禊(みそぎ)に該当します。


【付録】まだ間に合う,月おくれの七夕情報等 
また,事例に挙げるまでにはいかなくても,「月おくれの七夕」を行う地域は日本全国に多数存在します。七夕は江戸時代以前は旧暦で行われていましたが,この旧暦7月7日は今の暦に直せば,8月にあたり,梅雨真っ只中の今の新暦の七夕に比べれば,織女と牽牛が渡るという「天の河」を拝める確率も当然,かつての旧暦の七夕のほうが圧倒的に高かったわけです。
 探せば,多々あるだろう「月おくれの七夕」やそれに准じる祭事・行事を以下にいくつかご紹介いたします。

●真清田神社 尾張一宮七夕まつり(愛知県一宮市) ~天火明命をまつる尾張の古社
  2011/7/28(木)~2011/7/31(日)
 ・期間中,境内および周辺にて盛大な七夕飾り
 ・期間中には,神御衣祭(7/30 夕方5時~)や火の輪くぐり(7/28~31の夜)を催行。

●宇佐神宮 神幸(夏越)祭 (大分県宇佐市) ~かつて「東表(トヨビ)」と呼ばれた倭国のハイテクセンター。八幡信仰発祥の地
  2011/7/29(金)~2011/7/31(日)
 ・初日7/29(金),頓宮(御旅所)にて,夕方18時頃から夏越の神事(川御幣前での菅抜神事 ※上写真参照)あり
 ・期間中,出店,打ち上げ花火等イベント多数。
 ・最終日7/31(日),神輿還御祭

●鶴岡八幡宮 夏越祭 (神奈川県鎌倉市)
  2011/8/7(日) 
 ・午後の14時頃,源平池畔にて潔斎神事(上写真)に始まり,茅の輪くぐり,舞殿での巫女神楽(夏越の舞)へと続く。
 ・ぼんぼり祭り;2011/8/7(日)~2011/8/9(火)の夕刻18時~21時迄 
 



●大神神社 七夕祭  (奈良県桜井市) ~ヤマト王権発祥の地
  2011/8/7(日)午後14時 
 ・当日朝より拝殿前に七夕笹と短冊受付。また,14時から拝殿にて七夕神事(祝詞奏上,巫女神楽)
 ※冒頭写真は昨年の大神神社七夕祭の様子

●阿佐ヶ谷七夕まつり (東京都杉並区) ~都心付近では珍しく,月おくれの七夕
  2011/8/5(金)~2011/8/9(火) 
  ※この阿佐ヶ谷七夕まつりに合わせて,阿佐ヶ谷神明宮の境内においてバリ舞踊が奉納されます。
  「阿佐ヶ谷神明宮 バリ舞踊奉納祭」 ~通称,阿佐ヶ谷バリ祭
  ・2011/8/6(土)&8/7(日),いずれも17時開演
  ・このバリ舞踊奉納祭は5年前に見ましたが,宵の神社境内と,バリ舞踊が妙にマッチして幽玄な独特の雰囲気でした。

●仙台七夕まつり (宮城県仙台市) ~震災復興支援
  2011/8/6(土)~2011/8/8(月) HP:http://www.sendaitanabata.com/

●平七夕まつり(福島県いわき市) ~震災復興支援
  2011/8/6(土)~2011/8/8(月) HP:http://www.kankou-iwaki.or.jp 
 ※ただし,例年同時開催の「いわきじゃんがら念仏大会」は中止

●小川町七夕まつり(埼玉県小川町) ~和紙の里,小川町から震災復興支援
  2011/7/23(土)~2011/7/24(日) HP:http://www.ogawa-saitama.or.jp/tanabata/ 
 ※武蔵の小京都。小川町の伝統和紙でつくった独自の七夕飾り,オススメの郷土そば。また近隣には日帰り湯「花和楽の湯」があります。

●大磯の七夕行事(神奈川県大磯町) ~相模国府の地,大磯町の郷土行事  2011/8/6&2011/8/7 
この行事は、大磯町西小磯に伝承されている行事で、地区内の穢れ祓いや農作物の豊作を祈る雨乞いなどを祈念して行われる。子どもたちが短冊をつけた竹飾りで地面を叩いて歩いたり、竹飾りを用いて作ったタケミコシと呼ばれる龍形の作り物を担いで地区内を巡り、翌日早朝にタケミコシを海に流す(以上、文化遺産オンラインより)。



これらの中には古のタナバタや水の祭事に通じる,祭祀儀礼がみられるものも,もしかするとあるかもしれませんね。今年,新暦7月7日の七夕祭りを逃した方は,ぜひ,古の伝統をより伝えている可能性がある「月おくれの七夕」にお出かけしてみてはいかがでしょうか。

☆なお、こちらの月おくれの七夕情報、順次、新しい行事情報を追加していきます☆


文章・写真:KI
絵図:ひろみこ
全体校閲:御眞木




古代祭祀の面影


●夏越の大祓における,茅の輪くぐりの祭儀

早川の瀬に坐す 瀬織津比賣(せおりつひめ)といふ神
 
大海原に持出でなむ かく持ち出で往なば・・・

・・・罪といふ罪はあらじと祓へ給ひ清め給へと白す  

(大祓詞より抜粋)


今年もまもなく,6月30日。「夏越の大祓」の日です。1年のちょうど半ばにあたるこの日,全国各地の神社において,夏越の大祓式が催行される次第です。一年の前半,日数にして180日あまりの間,知らず知らずのうちに被った罪や穢れを祓い清める神道の祭儀です。
 家庭の宗教が神道だという方や先祖代々○○神社の熱心な氏子だという方などは,きっとご経験があるでしょう。

6月30日を前にして,「大祓とか茅の輪くぐりってなに?」とか「大祓も茅の輪くぐりも経験したことがないけれど今年は参加してみようかな」といった方々のためにも,今回は「夏越の大祓」と「茅の輪くぐり」について,祭儀の手順と作法についてまずはお話しましょう。



【夏越の大祓】 ~一般的な手順と作法~
 
以下,自分がここ数年,大祓でお世話になっている鎌倉の鶴岡八幡宮さんでの作法を参考に述べますが,全国どこの神社でも基本的な作法手順は同様だはずなので。

1.「人形(ひとがた) 」と「切麻(きりぬさ)」をいただく。
大祓式のために,神社し,受付で参加料金(お気持ちの場合が多い)と引き換えに,儀式で必要なものを授与されます。これが「人形(ひとがた) 」という人の形に切り抜いた長辺10センチ程度の紙と「切麻(きりぬさ)」という麻と紙を小さく切ったもの。そして,同時に儀式中で唱える「大祓詞」を書いたプリントもいただけるはずです。

2.「人形(ひとがた) 」に氏名・年齢を記入する。
おそらく,受付の巫女さんなどから案内がありますが,式典が始まる前にあらかじめ,お祓いに参加する者(ふつうは本人)の氏名・年齢を「人形(ひとがた) 」に記入しておきます。そして,それらを持って(神社によってはその場で後述4の「人形」への罪穢れ移しをして,式典前に回収するところも),おもむろに大祓の式典が行われる庭の所定の位置に赴いてください。

3.「大祓詞(おおはらえことば)」を唱和する。
参加者がそろい時間になると,神職さんたちが厳かに行列をなして庭に居並び,いよいよ大祓の儀式が始まります。これから,浄衣(白装束)姿の神職さんたちと一緒に「大祓詞」を唱えるのですが,まずは神職さんから作法や唱え方などについて,いろいろガイダンスがありますのでよく聞いておいてください。
 そして,「大祓詞」の唱和。天地開闢から天孫降臨と記紀神話を要約したような古典文ですが,声を出して朗誦してみると意外に難しい大祓詞。自分も初めてのときは舌をかみそうなりながら,時々遅れながら音読した次第です。なかなかの長文で約6分くらい唱えます。

 大祓詞(字幕付き)→http://youtu.be/IjIhA4GSTp4 

4.「人形(ひとがた) 」に半年間の罪穢れを移す。
「大祓詞」の唱和が終わると,まずは「切麻(きりぬさ)」を手にして,左肩,右肩,と順に自分の身体に振りかけます。次に「人形」を取り出してください。これで身体を左,右,左と3回ささっと撫でて,最後に一息吹きかけて,「人形」に罪穢れを移すわけです。全員の穢れの依り代となった「人形」は係りの神職がすぐに回収しにきます。櫃に収めて別の場所に移し,式典後に焼き払う(神社によっては水に流す)のだそうです。

5.さらし布を八針に取り裂く。
次に,地上の罪穢れを移した,さらし布を神職が手で引き裂いて櫃に収めます。これは「大祓詞」で天津宮事(天界での神聖な儀式)に倣ったと述べられている“天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて”という一節を再現したものになります。

6.「茅の輪」をくぐる。
そして,いよいよ「茅の輪くぐり」。神職さんの先導で,3メートルくらいの直径の「茅の輪」をくぐって,お祓いが完了します。なお,鶴岡八幡宮や大神神社のように参加者が大勢居る場合は,何組かに区分けして順番に「茅の輪」をくぐることになるでしょうから,神職さんたちの指示に従ってください。
 「茅の輪」は,左回り,右回り,また左回りと「∞」の字を描いて,大きな輪を3回くぐりぬけます。「茅の輪」は,蘇民将来の故事にあるように,これをくぐれば無病息災になるとされているのですが,実際のところ,茅萱(イネ科植物)の根茎には,糖分を含んだ薬効成分があって,利尿や止血に効能があることは,薬理学の世界ではよく知られています。


 
【夏越の大祓】 ~その歴史~



●鶴岡八幡宮での茅の輪くぐり(6月30日)


ここは古代史ブログ「倭(ヤマト)しうるはし」なので,現代における夏越大祓の手順の説明だけで終わってはいけませんね。このブログが射程にする,仏教公伝前の時代より,下る時代の話になりますがお話しましょう。
 「大祓」については,大宝律令によって宮中の年中行事に定められました。律令時代を通じて6月と12月の晦日,半年に一度の祭儀が行われ,現在,夏越の風物となっている「茅の輪くぐり」も,すでに行われていました。ただし,現在の神社でよく見られるような大きな「茅の輪」をくぐるようなスタイルとはだいぶ違ったものだったようです。
 
そして,この古い様式の大祓を今に伝承している一例(※1)が,九州大分の宇佐神宮です。
 全国4万余ある八幡宮・八幡神社の総本社である宇佐神宮ですが,古式の大祓が見られるのは,盛夏の頃に行われる夏越祭(夏の神幸祭)。境外に繰り出した八幡三神の神輿が到着した,日没の頓宮(お旅所)にて,その一部始終を目にすることが出来ます。


●宇佐神宮の夏越祭にて,川御幣を前に大祓詞を唱える(2009年7月31日)  


上写真のように3本の御幣を立てた槇を前に,神職一同が整列し,大祓詞を唱和します。
 実はこのお祓い神事,もともとは境外の小川で行われていたそうですが,訳あって,頓宮の広庭で行われるようになったそうです。そのため,3本の御幣を「川」の字に見立てて「川御幣」と呼んで,本物の川の代用としているのだそうです。
 この「川御幣」前での大祓詞・祝詞奏上・二段再拝など一通り終わると,宇佐神宮独特の茅の輪くぐりが始まる次第です。


境内に立てるような大きな茅の輪ではなく,直径1メートルほどの小さな茅の輪を使います(右写真)。神職がひとりずつ順に「川御幣」の前で茅の輪くぐりをするのですが,左の「宇佐神宮の茅の輪くぐり(菅抜神事)」のイラスト写真のように,茅の輪くぐりをする人物は一ヶ所に留まったまま。そして,その場で平伏したところに,茅の輪を手にした別の神職が上から茅の輪をサッと通すという次第です。その作法を「菅抜(すがぬき)」というのだそうで,宇佐神宮の茅の輪くぐりは別名,「菅抜神事」とも呼ばれています。
 あくまで皇族・高級貴族に限られた少人数による宮廷行事であったため,本来の「茅の輪くぐり」は宇佐のようなものだったそうです。
 やがて,権門階層のものだった夏越行事が広く一般にも普及し,茅の輪も一度に多人数がくぐることができるように大型化し,道に設置するタイプのものになり,今に至っているのだそうです。



【夏越の大祓】 ~そのルーツは?~

上述のように,大祓が儀式として整備されたのは,日本の律令体制が発足した頃ですが,その元となった祭儀や風習は律令以前,わが国が「倭」と呼ばれていた頃からあっただろうことは想像に難くありません。
 そのポイントのひとつになるのが,宇佐神宮の夏越祭の実例のように,川,すなわち水辺での祭儀であること。よくよく調べてみると,夏越の大祓または夏越祭と称するものは意外と水と密接な関係にある事例が非常に多いです。

“禊(みそぎ)”

ミソギ,すなわち「水濯ぎ(みそぎ)※2」は記紀にも頻繁に事例が出てきます。時代を経て儀式化されてはいますが,大祓(夏越の大祓)祭儀の根本にある「身に蒙った罪穢れを水に流し去る」というのはまさしく,上古におけるミソギです。
 冒頭に紹介した,「瀬織津姫(セオリツヒメ)」の一節は大祓詞の中でも,罪穢れをどのように消し去るかについて言及した大変重要な部分です。大祓詞で,川の水流を司るとされる瀬織津姫(セオリツヒメ)は水神。記紀には登場しない女神ですが,滝や川の女神として,河川などと関係がある各地の神社に意外とたくさん祭られています。
 もちろん,同時代の文献資料が殆どない古墳時代以前のことなので,記紀において,ヤマト王権の大王たちも頻繁に行ったという「ミソギ」の詳細を知る術もなく,以前に紹介した城之越遺跡(三重県)をはじめ各地で発見されている古墳時代の水祭祀(祭儀)遺跡との関連性についても断言できることはありません。
 しかし,大祓詞に現われる瀬織津姫(セオリツヒメ)の一節は,もしかすると上古の倭に存在しただろう,水の祭儀の一側面をわずかに現在に伝えているものかもしれません。   


●4世紀,この水辺ではどのような祭祀・祭儀が行われたのでしょうね(城之越遺跡)


※1:宇佐神宮以外では,出雲大社などでも菅抜神事である。
※2:「みそぎ」の語源については,他に「身濯ぎ」「身削ぎ」「水削ぎ」などの説がある。


●各社における「夏越の大祓」実施予定●
・伊勢神宮:6月30日(木)16:00~ 内宮にて,五十鈴川畔の祓戸の庭にて古式祭儀(茅の輪くぐりなし)神職のみ。一般参加不可

・大神神社:6月30日(木)15:00~ 祈祷殿前の広場で大祓詞と茅の輪くぐり。一般参加OK。また7月30日には境外摂社,綱越神社例祭でも大祓詞と茅の輪くぐり。

・宇佐神宮:6月30日(木)16:00~ 大祓式。参拝者にもお祓いの「人形」配布。茅の輪くぐりは7月29日に別途実施。

・出雲大社:6月30日(木)16:00~ 大祓式。17:00~ 菅抜神事(古式の茅の輪くぐり)。いずれも一般参加OK

古代祭祀の面影

比々多神社と縄文遺跡


●比々多神社のまが玉祭にて


故曰はく 開闢(あめつちひら)くる初めに 

天地(あめつち)の中に一物(ひとつもの)生れり 便(すなは)ち神となる 

国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号す 次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと) 

次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと) 亦は豊国主尊(とよくにぬしのみこと)と曰す


(日本書紀 / 神代七世より抜粋)


KIです。
 前回,「まが玉祭」のレポートでご紹介した比々多神社(神奈川県伊勢原市)は,日本書紀において,天地創造のときに三番目に誕生したとされる,豊斟渟尊(とよくむぬのみこと),別名,豊国主尊(とよくにぬしのみこと)を主祭神としてまつる古社です。
 社伝によれば,神武天皇の治世6年(紀元前655年)に大山(阿夫利山)を神体山として天地創造の神を祭ったのが比々多神社のそもそもの始まりであると云われていますが,神武天皇自体が架空の人物だとされているし,所詮,伝説に過ぎないというのが正直なところかもしれません・・・などと言っては,ここの責任者をしている御真木さんをはじめ神社関係者の方々からキツくお叱りを受けるかもしれないですが・・・。
 しかし,伝説の真偽性はともかく,ここ比々多神社とその近郊での祭祀が縄文時代にまで遡ることはほぼ確実です。


●比々多神社境内にある縄文時代の環状列石(近郊の発掘現場からの移築復元遺構)

比々多神社が鎮座する伊勢原市三ノ宮地区一帯では,古代の遺跡や古墳などが数多く存在しています。上古のころに築造されたとされる大小の古墳はかつて300基以上存在していたそうで,有数の規模の古墳群でした(ただし,戦後の開発によりほとんど消滅)。とりわけ,注目されたのが、上写真にもある縄文時代の環状列石。40年ほど前,神社のすぐそばを走る東名高速道路に関する工事が行われたときに発見されたものだそうです。当時,考古史料の保存を重視した比々多神社を中心に地元の尽力もあり,神社本殿の裏手に移築・保存されたものだそうです。
 環状列石は近郊からの移築遺構ですが,神社の境内地とその周辺からも,上古以前のものとしては,縄文時代から古墳時代にわたる遺物が出土しているとのことです。最も古いものでは,縄文時代早期(約12000年前)の尖底土器。次に縄文中期の土器やその付属装飾と考えられる顔面把手,また,同時期の祭祀に使われたと思われる石器や石棒。弥生時代のつぼ型土器や古墳時代の玉類や石製の模造鏡。
 これら神社の境内からの多くの出土品から,すでに縄文時代には,現在の神社地が斎場として祭祀が行われ,それは弥生・古墳時代にまで続いていたと比々多神社も伊勢原市の考古学関係者も考えています。
 そして,縄文時代の環状列石は神聖視されていた山(高峰や形の良い山)を意識し,崇め奉った祭祀遺跡であるという調査研究結果から,写真の三ノ宮地区の環状列石は大山(阿夫利山)を神体山として祭祀を行った場所であろうと推定されています。比々多神社もそうした大山(阿夫利山)に対するカムナビ信仰をルーツに誕生し,幾許かの変遷を経て現在に至っているのではないかと概ね考えられています(※)。


●緑に囲まれた比々多神社一帯からは最高峰の大山(阿夫利山)をはじめ山々を遥拝できます

比々多神社の社伝記から,原始から律令体制が確立する7世紀末あたりまでの項目を古い順に箇条書きしてみましょう。

・紀元前655年,神武天皇の治世6年。大山(阿夫利山)をカムナビとし,今の比々多神社がある場所を天地開闢の神,豊斟渟尊を祀る斎場と定めた。

・紀元前90年,崇神天皇(ミマキイリヒコ王)の治世7年。神戸(神領地)を王から奉られた。

・645年,大化元年。酒解神二柱を合祀し,「うずら瓶」が奉納された。

・692年,持統天皇朱鳥6年。相模国司の布施朝臣色布智により社殿修築並びに狛犬一対が奉納された。


奉納された「うずら瓶」と狛犬一対が,今も三之宮郷土博物館(比々多神社隣接)に現存する645年と692年の出来事はともかく,神武天皇と崇神天皇のころの出来事とされる前ふたつの記録は,やはりそのまま鵜呑みにするわけにはいかないでしょうね。神武天皇はほぼ神話上の人物でしょうし,崇神天皇ことミマキイリヒコ王も実在したとしても3世紀末から4世紀はじめの初期ヤマト王権の王でしょうし。
 


●大山(阿夫利山)の中腹付近,大山寺にある巨岩。実はこの大山の山頂からも縄文土器や古代の遺物が発見されており,古来からの山岳信仰を覗わせます

社伝にいう紀元前651年といえば,最近の学説によれば弥生時代(紀元前10世紀ごろ~紀元3世紀はじめ)に該当します。前述のように縄文早期から,大山に対するカムナビ信仰があったと思しき,三ノ宮地区周辺であれば,紀元前7世紀には,きっと社伝が伝えるように大山を神体山とまつるために何らかの祭祀場が既にあったことでしょう。
 そして,弥生時代末期から古墳時代にかけても,当時の祭祀具と思しき土器類や玉類が境内から出土している次第です。これら考古学史料は,相模エリアでは,比々多神社がある伊勢原市域に集中しています。それ故,律令時代に現在の大磯町あたりに国府が置かれる以前,古墳時代(3世紀なかば~7世紀はじめ)を通じて,ここ伊勢原が相模(当時は相武国)の政治経済と祭祀の中心であったことが確実視されています。
 また,三ノ宮地区の主だった古墳からはヤマト王権との密接な関係を裏付ける刀剣や装飾品など,当時としてはかなりの高級品が少なからず出土しており,比々多神社の社伝にいうように,ヤマト王権の王(大王)が神戸を奉ったかどうかはともかく,この地域とヤマト王権が密接な関係にあったことは事実でしょう。

このように考察してくると,社伝が伝える紀元前の出来事というのは,そのまま史実として受け入れることはできないけれど,全くの架空の説話ではなく,そういう伝説が生まれる元となるような歴史的背景や事実は確かにあったのだろうと思えそうです。


●比々多神社とその周辺は,はるか古代からの息吹を体感できるスポットです


※現在の比々多神社は大山(阿夫利山)とは特に関係がないようです。大山(阿夫利山)の中腹と頂上にはそれぞれ,阿夫利神社の下社と上社が鎮座しています。

【今回の探訪地】 ~神奈川県伊勢原市
・相模國三之宮,比々多神社
・大山及び阿夫利神社

【今回の旅程(2011年5月22日)】
小田急伊勢原駅(午前10時ごろ)=(「大山ケーブル」行きバス)=終点「大山ケーブル」BS
大山ケーブル(山麓)駅=阿夫利神社駅下車
●阿夫利神社下社(午前11時半ごろ~午後1時ごろ)icon60icon60icon62
阿夫利下社=(参道から女坂を徒歩で下山; 約40分)=大山寺
《徒歩で下山した者から一言》阿夫利下社から大山寺への山道は大変急峻。体調不具合や子供・高齢者,または服装等が登山に向かない格好で山道を上り下りするのは,はっきり言ってオススメできません。
●大山寺icon76
ケーブル大山寺駅(午後2時ごろ)=大山ケーブル(山麓)駅下車
「大山ケーブル」BS=(「伊勢原駅」行きバス)=石倉橋BS下車=(徒歩で,比々多神社へ; 約45分)
●比々多神社(午後3時ごろ~5時ごろ)  ~境内遺跡(縄文期の環状列石)・郷土博物館・らちめん古墳等
比々多神社=(徒歩; 約50分)=鶴巻温泉街(小田急駅前)



【アクセス】
(比々多神社へは)
小田急「伊勢原駅」からのバス
・北口1番線(関台経由栗原行)乗車→「比々多神社」下車(約15分)→徒歩すぐ
・北口1番線(大住台経由鶴巻温泉行)乗車→「神戸」下車(約12分)→徒歩約12分
・北口4番線(殿村・石倉橋経由伊勢原車庫行)乗車→三ノ宮下車」(約12分)→徒歩約5分

小田急「鶴巻温泉駅」からのバス
・2番線(大住台経由伊勢原駅北口行)乗車→「神戸」下車(約12分)→徒歩約12分
・2番線(伊勢原車庫行)乗車→「神戸」下車(約12分)→徒歩約12分

(大山へは)
小田急線「伊勢原駅」からのバス
・北口(改札口を出て右)バス4番線から神奈川中央交通バス伊10系統「大山ケーブル」行き乗車
 終点「大山ケーブル」下車 約30分 運賃300円


古代祭祀の面影

古の水祭祀とは


●古墳時代における水辺の斎庭(ゆにわ)と御殿の想像復元模型(三重県,城之越遺跡資料館にて)

天皇(すめらみこと) 乃ち沐浴斎戒(ゆかはみものいみ)して

殿(みあらか)の内を潔浄(きよまは)りて 祈(の)みて


(日本書紀 / 崇神天皇の条より)


KIです。いろいろとかまけて(エイサー旅日記のこととかどうしよう・・・etc),5月12日以降の更新をしないまま,6月を迎えてしまいました。
 今年,日本列島は6月を待たずに大半が梅雨入りしましたね。梅雨にちなんで,今回の古代史ブログ「倭(ヤマト)しうるはし」は「水」に関する話題をひとつお届けしましょう。
 

【水の祭祀遺跡】
ゴールデンウィークが明けてまもなく,伊勢へと旅する機会を得ました。そのときに,少し足を伸ばして,西へ,伊賀の地にて見学してきたのが,「城之越遺跡」。下の写真のように石組みで清流を囲った祭祀遺構です。


●城之越遺跡。古墳時代,水に関する祭祀が行われたと考えられています


名古屋あるいは伊勢方面からは近鉄特急(伊勢中川経由,大阪方面行)と伊賀鉄道を乗り継いで比土駅で下車。田植えが終わったばかりの田園の道を歩くこと5分程のところに,城之越遺跡とその資料館が物静かに佇んでいます。
 1993年,この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに発掘されたそうです。同時に,儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかり,これらの出土品から,4世紀後半ごろにここで水に関する何らかの祭祀が行われていたと考えられています。
 そして,祭祀遺構のすぐそばには冒頭写真にあるような大型建造物の跡も見つかっており,祭祀のバックには在地の有力豪族の介在があったとも考えられています。


●遺跡の湧水ポイント。現在はポンプで当時の泉水を人工復元しているが,発掘時にはまだ水がわずかに湧き出ていたそうです

特筆すべきは,3箇所ある天然の湧水(泉)。遺跡が公園化され整備された今では枯渇してしまいポンプで人工的に再現しているとのことですが,古墳時代当時は自然に清水が湧き出ていたとのことです。やがて木津川へと水が注いでいっただろう,この清泉において,4世紀から5世紀はじめの頃に祭祀(または儀式)が行われたことは間違いないものの,具体的にどのような内容の祭りが行われたのかは殆どわかりません。
 古今,神道において祭事本番を行う前に必ず行う「禊(みそぎ)」を行う施設ではないかという解釈もある一方,遺跡から多数出土している祭祀具から見て,水(泉)そのものを神聖視したのではないか,単なるお清め行為の「禊(みそぎ)」ではないのではないかという解釈もあるようです。
 冒頭,崇神紀からの引用のように禊(みそぎ)については記紀にも散見されますが,禊以外の水にまつわる祭祀儀礼(または神話)については記紀などの文献にも明確な記載がなく,現在に受け継がれる神道においても見当たりません。
 どちらにせよ,当時あっただろう水祭祀の実体を推し量りにくいというのが正直なところです。


●流水の合流エリアに営まれた立岩群。磐座(依り代)とも後世の庭園石の祖形とも考えられています

上古の水祭祀の実体を把握するのは難しいものの,古代においては「水」は今以上に貴重な資源として尊重されていただろうことは想像に難くありません。また,我々日本人の祖先である倭人は,山,岩,河川などあらゆる自然物に神性が宿ると信じ,斎きまつってきたわけで,生物の命を支える水も何らかの崇拝の対象になっていたと考えるのが妥当といったところでしょう(否,水だけが特に祭祀の対象ではなかったと考えるほうが非合理的です)。

禊(みそぎ),七夕神事,那智の飛瀧神社,沖縄で見られる御泉(ウカー)神崇拝 

上古にあっただろう水祭祀の面影をわずかなりとも現在に伝えていそうな行事を少し羅列してみた次第。もっとも,間違っているかもしれないし確証はないのですが・・・


【水祭祀,再現の試み】
ところで,城之越遺跡に限らず,日本列島各地にて,水祭祀に関する古代遺跡が確認されており,これらはかつて「倭」とよばれていた日本列島で幅広く,水の祭祀があったことを物語っているものでしょう。
 そんな遺跡のひとつが群馬県高崎市の三ツ寺遺跡。5世紀には「かみつけの国」と呼ばれたこの地域一帯を支配したと考えられる王の宮殿跡遺跡ですが,人工的に引水した流水施設とそこでの儀式に使用したと思しき,祭祀用土器や粗製の勾玉類が発見されています。
 これら考古学上の発見史料と,王の儀式を表したと思しき埴輪を参考に,かみつけの里博物館(群馬県高崎市)では毎年秋恒例の古墳祭りにおいて,流水の儀式を想像・再現しています。

◆かみつけの古墳祭り再現劇「王の儀式」での流水の儀式◆


再現劇では,(1)~(5)の写真のように,流水を引く石敷きの斎庭(ゆにわ)で,巫女が「イカホの水」を取水し,玉座の王(きみ)に献じます。
 
そして,この再現劇の参考になったのが下の埴輪群。


●王の儀式を表すとされる埴輪群(写真 /かみつけの里博物館より許諾借用)

かみつけの里博物館そばの八幡塚古墳には,出土した埴輪が復元・配列されていますが,その復元埴輪の一部です。

古墳時代の再現というものはどうしても推定の粋を出ることはできないものですが,群馬県かみつけの里の再現劇は,古の水祭祀の姿にアプローチすることができた数少ない実例だといえるでしょうね。

文章&カラー写真:KI
モノクロ写真:かみつけの里博物館より借用


参照先)
城之越遺跡 | 伊賀市・名張市広域行政事務組合
かみつけの里博物館

古代祭祀の面影


●大楠を前に,神楽舞が奉納されました

すべて大八洲國(おおやしまくに)の内に 

           播き殖えて 青山と成さずは莫し


(日本書紀 / 神代紀上より)


去る5月5日,熱海の来宮神社で大楠祭りがありました。

熱海に鎮座する来宮神社(きのみやじんじゃ)の境内には樹齢2000年を超えるとされるクスノキの巨木(大楠)があります。この大楠がちょうど新葉を付け、生命力がみなぎるこの時季,毎年5月5日に催行されている祭事です。
 マスコミでパワースポットとしてしばしば取り上げられているためか,このところ参拝者が足繁く訪れるそうで,祭当日も朝から多くの人々が集まってきていました。多くの人々が見守る中,午前11時に祭事は始まりました。


●大楠を前での祝詞(のりと)神事。その巨大さは写真の人影との対比からもわかるのではないでしょうか 

はじめ五十猛神(いたけるのかみ) 天を降りし時に

多(さわ)に樹種(こだね)をもちて下る


(日本書紀 / 神代紀上より)


ここ来宮神社の祭神の一柱である五十猛神は樹木森林の神。こちらの過去記事でこのことを詳しく書いたので以下,引用します。

「パワースポット、来宮神社の大楠(2010年11月29日)」より引用)
来宮神社の祭神は,日本武尊(ヤマトタケルノミコト)・五十猛命(イタケルノミコト)・大巳貴命(オオナムチノミコト)の三柱。縁起によれば奈良時代に木の神像(実は五十猛命の化身)が熱海湾で漁師の網にかかったので,それを祀ったとされていますが,もともとは境内に大楠があることから上古からの樹木崇拝が起源でもあるお社ではないかと考えられています。そもそも,冒頭の日本書紀の記載のように,ご祭神の五十猛命が樹木(森林)と深い関係にある神様です。
 古来,巨木も,先出の磐座と同様に神が宿る依り代(神籬,ひもろぎ)として祭祀が行われてきました。現在,2000年を越える樹齢を誇るこの大楠は,古墳時代においてもおそらく樹齢数百年レベルの大木だったでしょう。来宮に社殿神道が波及する以前,古代の熱海周辺の人々はこれを神が宿る大木として崇め,折に触れて大木の前で様々な神事を行ってきたのかもしれません。

「キノミヤ信仰」

社殿神道以前の,巨石・山・樹木など自然物崇拝(原始神道)のうち,樹木崇拝をとりわけこのように呼び習わすそうで,相模湾岸から伊豆にかけての地域に見られる信仰形態だそうです。

来宮神社の大楠は,日本書紀にある五十猛命の神話とともに,かつて「倭」の地に広くあっただろう樹木崇拝の面影を今に伝えているのかもしれませんね。

(以上,引用おわり)


祝詞神事のあと,神楽「大楠の舞」が奉納されました。


●来宮神社独自の神楽,大楠の舞

時節に似つかわしい新緑色の装束です。千古の時を生きつづけた大楠を称える歌詞に合わせ,全体にゆったりと優雅な振りの神楽でした。
 巨木に宿る神霊を前に,供え物を並べ,祝詞を,神楽を,次々に奉じる様子には,社殿を設けなかった時代の古神道もかくやとばかり,神祀り(または,神遊び)の原点を垣間見ているような気がするものです。

新緑の候は大楠の生命力が刷新され甦る季節

大楠祭の後,神職さんの話によれば,クスノキは樹の根元側から毎年,新芽が吹き出し,先端側にある古い葉は,新緑が色付くと,あたかも親が子の成長を見届た如くに,パラパラと地に散るのだそうです。しかも,根元に散った赤茶けた葉には殺虫成分(樟脳)が含まれていて,散った後も夏の虫から樹を守り続ける次第です。
 もちろん,これほどのものが人間の日常生活にも影響を与えないはずがない。


●立ち龍(中央写真)に,こっちを覗く顔(右写真)。神の依り代として,千古から熱海を見守ってきた老大樹には様々な表情が見出せます

午前11時30分,2011年の大楠祭りは終わりました。

巨大な大楠を前に「樹・岩・水などの万物には神々が宿り,森羅万象を司る」という素朴な考え方をなるほどと実感させられるひととき。熱海来宮の大楠祭りは,自分たち日本人の遠い祖先である倭人の信仰を,わずかなりとも追体験できる数少ない祭りなのかもしれませんね。


 熱海来宮神社ホームページ:http://www.kinomiya.or.jp
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まほろば旅日記編集部 倭しうるはし担当