宇佐,風土記の丘
●弥生期の方形周溝墓(左)と古墳期後期の前方後円墳(右)。宇佐風土記の丘に点在する3~6世紀の古墳群は宇佐一族の奥津城(2008年4月撮影)
豊國の宇沙に到りましし時 その土人(くにびと),名は宇沙津比古,宇沙津比売の二人
足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて 大御饗(おほみあへ)たてまつりき
(古事記 中つ巻より)
4年前に初めて宇佐神宮に詣でたとき,3キロほど離れた「宇佐風土記の丘」へと足を運びました。ここは,3~6世紀にかけて造られた古墳群を歴史公園として整備したものです。敷地内にある大分県立歴史博物館を見学した後,点在する古墳を見てまわりました。
風土記の丘には,6基の前方後円墳があり,その周辺には前方後円墳が登場する以前から造営され続けていただろう方形周溝墓も多数,発見されています。いずれも弥生・古墳時代にこの地を支配していた宇佐氏の王墓だと考えられています。
昼も近づく風土記の丘,弁当などを持参して,黄緑の若草に腰を下ろしピンクの桜を静かに愛でる家族連れの人々がちらほらと訪れていました。
その宇佐氏の始祖は,ウサツヒコノミコト(宇沙津比古命)。宇佐族の祖先神として宇佐神宮の境内社でも祭られるですが,記紀にはイワレヒコノミコト(神武天皇)率いる天孫族の水軍が国東半島に寄港した際に,イワレヒコノミコトのために仮宮を用意するなど一行を手厚くもてなした宇佐の王として登場しています。ウサツヒコの子孫は宇佐君(うさつきみ)と呼ばれ,独立の王として国東半島を統治する一方,神官としても宗像三女神の祭祀を司りました。4世紀後半以降,大和の大王(おおきみ)が日本列島の統合を推し進めると,その傘下に入って宇佐国造(うさのくにのみやつこ)となり,引き続き祭祀と国東半島の統治を続けました。
やがて律令時代となり,宇佐国造は政治的な権限は失いますが祭祀権のほうは保持します。宇佐神宮の神官となって,古来の宗像三女神(比売大神)と新来の八幡大神(応神天皇ことホムタワケ大王)の祭祀を連綿と子々孫々に受け継いで1300年,紆余曲折を経ながらも現在の大宮司家へと至っているというわけです。
すがすがしい青空の下,散策する人やベンチで読書する人を時々見かけるものの,至って静かな風土記の丘でした。
タンポポやまだつぼみの花菖蒲,そして散策道にちりばめられた桜の花びら。
ここは,まさしく宇佐の「王家の谷」。ウサツヒコノミコトも王家の谷のどこかで眠っているかもしれませんね。
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