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倭(ヤマト)しうるはし

~わが国が「倭」と呼ばれていた上古の面影を今につたえる風景や風物など・・・いにしえのヤマトをしみじみと~

延喜式内社や全国一宮など

宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~

宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~
●宇佐神宮の上宮本殿(朝8時ごろ)

宇佐神宮は,八幡総本社というだけあって,大変広大な境内敷地を有しています。

山間にお平地に横たわる朱塗りの建築群は壮麗そのもので,異彩を放っています。

まだ,客足が増える前に上宮本殿から,石段を下って下宮へと向かいます。


宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~
●上宮から下宮へと向かう石段

もともとこのあたりでは海神(宗像三女神)の祭祀がさかんであったといいます。

大陸との海上交流が古来,密接だったのでしょう。この宇佐の地は,かなり早くから製鉄文化など大陸由来の風習や先進技術が普及しており,

3000年前には「東表(トヨビ)国」という国があったとかいう突拍子もない話があるほど,古くから倭のなかでも特異な地域だったようです。


宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~
●このむこうには下宮が

こんな倭国のハイテクセンターだったともいうべき宇佐嶋に,ヤマト王権の大王だった応神天皇が祭られたのは古墳時代もい大詰めを迎えつつあった6世紀後半。

この時期は,これまで倭に割拠するたくさんのクニの王(きみ)を束ねるまとめ役程度だったヤマト王権が,倭国を部族国家連合的なものから中央集権の国家へと転換させようと動き始めた時期にあたります。




宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~
●下宮の朱鳥居

紆余曲折はあったものの,律令国家体制が確立された8世紀初めのころに,宇佐嶋で,従来宇佐にあった大陸風のシャーマニズムや海神信仰をも吸収しつつ,八幡大神(応神天皇)を主祭神とする八幡信仰が成立しました。

そして,古墳時代以前の宇佐嶋の主役だった宗像三女神は,「比売大神」という名で,八幡の主祭神に常に寄り添う「ヲナリ神」のような存在になり,そして後世,これがお決まりの八幡信仰の在り方として日本各地への普及していきました。


宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~
●ここは大祭のときにお祓い神事を執り行う処だとか

応神天皇が宇佐の主祭神となったのは,ヤマト王権による日本列島の中央集権化の表れだとか,ヤマトの神官勢力が宇佐地域に入ったためだともいわれていますが,

応神天皇ことホムタワケ大王は実は,もともとヤマト地方の王侯ではなく北九州あたりの出身であることが,記紀などから強く示唆されもするのです。


或いは曰く,ホムタワケはヤマトの大王になる前は北九州の豪族(王侯)だった。それが,ヤマトに入って,三輪王朝にかわって新たな王朝を開いた,とも。

いわゆる河内王朝というヤマト王権の新たな王朝が畿内に現れるのは4世紀末あたりのことで,西暦369年と371年に起きた倭軍の南韓出兵はヤマトの大王になる前のホムタワケが将軍として指揮して行ったのではと推察する研究者もいるそうで,その実績を各地の王(きみ)に認められて,ホムタワケは,崇神天皇ことミマキイリヒコ王の後継者たちに代わって新たなヤマト王権のリーダーつまり大王になれたというもの。

倭王となった後も,ホムタワケ大王が国内産業の振興や支配権の拡大(南九州の一部や蝦夷地をのぞく日本列島ほぼ全域を統合)に大きな実績を残したことは記紀が語るところですし,或いは西暦391年に朝鮮半島で広開土王治下の高句麗軍と交戦したのもホムタワケ大王治下の倭軍である可能性が高いといわれています。


宇佐神宮,逍遥 ~八幡大神,降臨の聖地~
●宇佐神宮境内社の八坂神社にて

なるほど,その学説が本当に正しければ,ホムタワケ大王が宇佐で祭られたのは,地元出身の英雄に対する崇拝のあらわれだとも受け取れそうですね。

また,もともとの宗像三女神と結びついたことから,八幡大神は海の神との相性が大変良い神様でもあるのだともいいますね。





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